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もりのくまの”M's Grab Bag”が「くまの雑記帳」で再出発。観劇記録、コンサートの記録、おいしいもの記録が中心の雑記帳です。


by a_bear_in_woods
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『負傷者16人』@新国立劇場小劇場 5月14日

ちょっと前になりますが、2度目『負傷者16人』の観劇に出掛けてました。
↑書いているうちに時間が経ちました(汗)。しばらく前になってしまいました。

すでに東京公演は楽を迎えて、この週末に兵庫県ですね兵庫での大千秋楽も無事迎えています。

井上芳雄くんは兵庫の前に久しぶりに1ステージ限りのゲストでのショーへの出演で、幸せを感じながら歌っていたらしいですが(笑)。

ええ、多分、客席のファンの人たちも負けず劣らず幸せな気分で、歌う芳雄くんを見ていたに違いありません。うん、やっぱり彼は歌とお芝居の人だし、何より『負傷者16人』は重たかったからね。

更にもう一つ、宮澤賢治の朗読劇もありましたね(私は行けませんでしたけど。)


2回目の感想を書く前に、前回は省略したあらすじをちょっと。

1990年代初めの頃のオランダ、アムステルダムで初老のハンスはパン屋を営んでいた。
家族はなく、客と娼婦の関係以上だが、恋人未満と言う微妙な関係のソーニャとは随分と長いこと、二人の間の取り決めにのっとった関係が続いている。

ある夜、おそらく深夜、ソニャーのところからの帰り道、ハンスは乱闘で大けがを負った青年を助け、病院へと連れて行く。

病院で目を覚ませた青年は、名前も名乗らず、助けてくれたハンスに対してもケンカ腰でしか話が出来ない。
どうやら、彼は何か事情のあるパレスチナ出身の青年でお金も今はないらしいことが判る。

ハンスはこの青年、マフムードの治療費を建て替えた上に、パン屋の手伝いの仕事を与えることにした。

パレスチナ出身のマフムードにとってユダヤ人は単なる敵(てき)以上の存在だった。彼が持っていた物、権利、全てを奪った憎むべき敵(かたき)だった。

そして、ハンスがユダヤ人であることを知ったマフムードは一度は受け入れたハンスが差し伸べた手を強烈に拒絶してパン屋を飛び出した。

そんなマフムードをパン屋に戻したのはオランダ人のダンサーの、ノラだった。
美しいノラにマフムードは一目ぼれしていた。

ノラはハンスの店を飛び出したマフムードを偶然街中で見つけて声をかけた。

マフムードの書くアラビアの文字を「美しい」と言い、興味を示してくれたことはマフムードの心をほんのわずかだがやわらげ、その彼女にほんの少し感化されたのか、それともやはりノラにまた会いたかったのか(汗)、マフムードはハンスの店に戻った。

それからしばらく、ハンスのパン屋には静かな時間が流れていた。世界には不幸や事件が満ちていたとしても……ハンスは自分のパン屋にはそんな世界の見たくもないニュースは必要ないと口にしていた。一見すると平和に慣れ切った安全な場所にいる人間の言葉に聞こえるが、それには彼の過去が関わっている。

やがてマフムードはユダヤ人を許せるはずはなかったが、ハンスとの間には確かに絆を作り上げていた。ノラとの間には愛と新しい命を育んでいた。


そしてある日、オスロ合意でイスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長が握手をするニュースが流れた。
この日、静かなパン屋に一つ目の波が立った。
この夜、マフムードはノラに全てを打ち明けた。

彼はバス爆破犯でテロリストの一人であったと……

告白を受けたノラは混乱した。
マフムードは良い人間だ。そして彼が失ったものに対して権利を主張すること自体は理解もできる。
だけど、報復は?

ノラは全てをハンスに打ち明けてしまう。

ノラの告白を聞き、当惑しているハンスに、マフムードは何も知らず、無邪気にこれから生まれてくる自分の子供の誕生の時にアザーン(イスラム教の礼拝の言葉)を赤ん坊に掛ける大事な役割を頼んだ。
ハンスも嫌々ながら引き受けたと言うポーズをとるもののマフムードの願いに応えようとしていた。
新しい家族を作ろうとしている若い二人を見守るハンスは、自分もまた新しい絆を求め、ソーニャにビジネス抜きの新しい関係を求めるが、拒絶されてしまう。

そんなある日、パン屋に一人の男がやってくる。
平和なパン屋にそぐわないその男はマフムードの兄だった。
朝早い、まだマフムードしかいなかった店内でされた会話はマフムードに逃れられない過去と未来をもたらした。
彼がテロ行為に加担したのは、彼の弟がちゃんとした教育を受けられると言う保証を得るためだった。
だが、現実は弟もマフムードと同じ道を歩み始めていた。そして、組織に見つかった彼には次の命令が下された!

数日後、その命令を遂行するための爆弾がマフムードの元に届く。
彼は最後の仕上げをパン屋の厨房でしていると、ソーニャの所から戻ったハンスに見られてしまう。
二人はそこで口論を繰り広げる。
ハンスは命がけでマフムードの次のテロを阻止しようとする。

ハンスの勢いに負けを認めたようなマフムードは爆弾の時限装置を外し、ハンスに預ける。
「これでこの爆弾は、いつ爆発したらいいか分からなくなった」と。

ハンスはこれをマフムードが計画を諦めたと理解したが、それは違った。
マフムードは自分で爆弾を爆発させる道を選んだのだった……

------
と、救いのない形で舞台は終わります。
もっとも、この問題に「救い」を書き加えることは今の世界では無理なのだと思います。

で、観客はそれぞれに重りの様な気持を抱いて帰宅する事になります。
悲劇であっても何か思いが昇華されて終わる物語も存在しますが、これはそうではありません。

さて、ちょっと話はそれますが、兵庫県在住の友人はこういう問題にも興味と知識を持つ人物だったので、このお芝居をお勧めしてみました。
比較的ギリギリだったのですが、チケットも余裕で手にできたそうで(汗)、見に行ってくださりました。
もちろん、彼女の感想も色々勉強になったのですが、ちょっとうれしかった感想は「井上さんのアザーンは素晴らしかった。イスタンブールで聞いた本物を思い出した」でした!そっか、芳雄くんはアザーン要員だったのか!?って違いますけど(汗)。

この舞台の前半ではハンスがユダヤ人であることは分かっているものの、彼が世界の不幸を自分の店に持ち込みたくないと言うのは、紛争や事件の外側の人間の事なかれ主義に見える態度が、自分の日ごろのように感じられました。
ところが、それは舞台の後半で覆されます。
彼はかつて当事者だった。そして生き延びるために自分がしたことについて、自分自身を許してはいなかったのだ。

マフムードの全てを知った時のノラの反応が私の感情に近かったと思う。
劇中の中でノラが「何が正しくて何が悪いことなのかがわからなくなった」って言っていたけれど、ああ言う紛争を扱ったものを見たり読んだりすると、本当にそう思う。
単純に白黒分けられるものじゃないことぐらいは頭で理解できているつもりだけど、その「つもり」と目の前で事実を突きつけられるのは別なものだ。

「救いのない結末」と書いたけれど、マフムードの立場で見れば「救い」だったのかもしれない。

ノラに全てを告白した後の彼は、まるで過去を告白した事と、子どもの誕生を機に、自分までが生まれ変われると思っているかのようにも見えた。
私たちから見れば、バスを爆破し、幼い命まで犠牲にした事すらも消し去って、自分がやり直せると思えるのか?と思う部分もあるけれど、彼にはその時にはそれが可能に見えたようだ。
兄が現れるまでは……

兄が現れて、全てを見ていたと言われた事は、すなわち敵対組織にもいずれ見つかると言うことだ。
組織から逃げて生き延びるのに、一人なら可能かもしれないけれど、そんな日々と無縁だったノラと小さな命を連れては不可能だ。
見つかれば自分だけではなく、妻子に危険が及ぶのだ。
そんなことに彼が耐えられるはずはない。

せめて彼が新しいミッションを行えば、追手が当面は一つ減ることになる。
だが、それも今回と同じくいずれ見つけらて、同じ方法で次の実行を迫られるだけだ。一度実行してしまったことで、彼はもう連鎖から逃れられないのだ。

ならば、信頼できるハンスのもとに二人を残し、自分が永遠に消える。
これなら、自分は新しい命の中に残れるのだ。
「救い」だ。

だけど、タイトルの「負傷者16人」にとっては、ここから新しい負の連鎖を生みだすかもしれない。
あるいは、断ち切るすべを模索するかもしれない。
少なくとも「救い」ではなく新しい「困難」の始まりだ。

ってことで、物事に普遍的な「解決」や「救い」なんてないんじゃん!ってなっちゃうと、やっぱりそれは不幸だな。

さてと、まとまらなくなってきたのでこの話はここまで。

2回見て、気になる点を2つ。(もっとあるけど)
ソーニャはなぜハンスの望みを拒絶しなければならなかったのだろう?
ハンスに対して個人的に結婚や愛情といった思いが持てなかっただけなら、早々に別な人との生活を営み、「仕事」に幕引きをすることはできたはずだ。
だから、別な何かが、彼女自身が「生活」を作ることを拒絶させているのだと思う。けど、それが見えなくって分からなかった。

もう一つはハンスがパン屋である理由はあるのか?
もちろん、劇中で言うようにホロコーストを逃れたものの、お金も何もない少年だったハンスが空腹の余りに盗みに入った先がパン屋で、そこの主人に拾われたからなわけだけど、その店がパン屋である必然性と言うか、メタファーがあるのか?ってこと。
実際、ラストの口論のシーンの「ユダヤ人はパン屋をしてはいけないって言われたらどうする?」「ユダヤ教を捨てる」のやり取りにはパンがキリスト教ではキリストの体を表す事に暗喩していると思われる。

どんな店に入ったって、現金を盗ることはできたはずだし、それで食べるものを手に入れることも可能だったはずだ。
大人になってからのハンスは現金に手を出すことにパンよりもためらいを感じるだろうと思うけど、切羽詰まっていた時の少年ハンスにはどっちでも良かった気がする。
でも、手っ取り早くお腹を満たすためにはパン屋が良かった、それも理解ができる。
で、そこだ「手っ取り早くお腹を満たせる」
つまり、既に調理された主食がそこにある!ってこと。

キリスト教との関わりをちょっとはずしてみたとしても、麦食文化とコメ食文化の間には大きな違いがある気がしたのだ。
例えば、ハンスと同じ立場になった少年が日本の過去の時代(コンビニとかパン屋が一般的じゃない)にいたとする。

米屋には入らないのだ。
だって、米屋にあるコメはそのままでは食べられないから。
むしろ、民家に入って炊事場からその家のご飯を盗む方が可能性が高い。

で、何が気になるかと言うと、米屋は町の人の生殺与奪の権を完全には握っていない。
米が欲しかったら自分で作るとか、農家と個人的に取引するとかでもコメは得ることが可能で、それを家で食べられる形にできるのだ。

一方、麦は畑からまっすぐでは食べられない。
粉にする人がいてパンにする人がいてやっと人々の腹を満たせるものになる。

パン屋って何気に生殺与奪の権を持ってる気がする。
ってことが気になってしまった。

なんていうか、そのあたりにも色々理解を困難にする隔たりってありそうだなぁ、ってことで。

あ~、もう色々空中分化したままで終わり!

これはもう個人的な覚書レベル。
by a_bear_in_woods | 2012-05-24 16:43 | Theatergoing